クーパースタウン・ファウルズ・ボール・クラブという名の草野球団を知ったのは、高校生の頃だったか。 岩波新書から刊行された『白球礼讃』を書店で手に取り、頁をめくるうちに、自分の求めていた野球チームがここにあると、胸が高鳴ったことを思い出す。
アメリカ・クーパースタウンにある野球殿堂の公認を得て、年間65試合(当時の日本プロ野球の試合数の半分)を戦い、ドラフト会議や年俸制度(成績に基づいた「年俸」を選手が球団に支払うという制度だが)のあるプロ草野球団。名誉監督には長嶋茂雄氏を迎え、元ロッテ・オリオンズの強打者レロン・リーも選手として入団しているという。
『白球礼讃』の著者は、ファウルズの監督兼三塁手、平出隆という詩人だった。
やがて、やはり平出隆著による『ベースボールの詩学』という書籍が、筑摩書房から刊行されていることを知った。
『白球礼讃』がファウルズの歴史と活動を紹介する入門書というべき内容であったのに対し、『ベースボールの詩学』には、著者の、ベースボールをプレイする熱情の根幹に流れる哲学が綴られていた。
ベースボールの原基形態は投球と打撃であると言う平出氏は、投手と打者の間にあるキャッチボールに似た「会話」が、次第に双方の内側の抗しがたい欲望により、破壊にも似た高まりをみせて野に炸裂する瞬間を、「日常の言語のやりとりを、深まるやりとりの真摯さの中でこそ破りたくなる衝動、すなわち詩」と同一のものとして語る。
ベースボールをたんにスポーツの一競技としてではなく、文化的・文学的な視座から捉え、それを実践において検証するというスタンスが、ぼくにはとても新鮮だった。
実際にファウルズという球団と出会うまでに、ぼくは幾たびこの2冊を読み返したことだろう。
大学3年生のある夏の日、『週刊ベースボール』にひとつの記事が掲載された。さまざまな分野の野球好きの著名人が野球を語る連載シリーズに、平出氏が登場したのだ。
その内容もさることながら、重要だったのは、そのプロフィールの欄の末尾に、「91年から多摩美術大学の芸術学科で助教授を務める」と記されていたことだった。
その年の夏、ぼくは2年間務めていた母校の野球部の助監督の任期を終えて、自由な立場になっていた。自分がプレイをする場所として、初めてクーパースタウン・ファウルズの存在が現実的なものとして目の前に浮かび上がってきたような気がした。なにしろ、多摩美術大学といえば、山ひとつを越えた先にある、いわば隣同士の、同じ市内にある同じ美術大学だ。
9月に入って大学が再開されると、ぼくはすぐに多摩美術大学に向かった。芸術学部の研究室はすぐに見つかったが、肝心の平出氏は授業がなくて不在だった。研究室の壁に貼り出されている時間割をメモして帰り、翌週、平出氏の授業のある日に、再び多摩美術大学へ。研究室には、『週刊ベースボール』に掲載された写真そのままの人物が机に向かっていた。しかし、いざとなると臆して声をかけられない。結局その日は、廊下でうろうろしながら時間を費やし、平出氏が研究室を出て車に乗りこんで帰宅するのを物陰から見届けて、がっかりしながら家に帰った。
3度目には覚悟を決めて、階段で待ち伏せることにした(結局、最後まで研究室に入っていく勇気は出せなかった)。しかし、いざ本人と鉢合わせをすると、やはり声をかけられず、帰宅する平出氏の後を追うのがやっとだった。校舎を出たところで平出氏は立ち止まり、小さな猫をかまっていた。多摩美術大学には猫が多く住みつき、そして平出氏は後に『猫の客』という随筆を書くほど猫好きだったのだ。そのおかげで好機を得たぼくは、勇気を振り絞って声をかけ、ファウルズに入団したい旨を平出氏に伝えた。平出氏は黙って話を聞き、週末に杉並区の松ノ木球場で試合を予定していること、試合後に入団テストをしてもよいことを静かに話してくれた。突然の入団希望者の出現に、少し驚いているようでもあった。
記録を見返すと、1995年9月30日。ぼくは遠投や走塁、そして詩人のチームらしく句作などのテストを経て、正式にファウルズに入団した。
翌週から、ぼくは週末ごとにファウルズの試合に足を運んだ。今から思えば、それは書籍の頁を通り抜けて、架空の世界のなかに足を踏み入れたような、不思議で充実した歳月だった。
96年、ファウルズには、映画『プリティリーグ』から着想を得た「プリティ・ファウルズ」なる妹チームが誕生した。女性選手を中心に、60歳以上の男性選手も出場資格のあるそのチームには、『白球残映』で直木賞を受賞した作家の赤瀬川隼氏も入団した。赤瀬川氏の小説を愛読していたぼくは、その誠実な人柄に、お会いするなり親しみを感じた。ちょうど野茂投手が海を渡り、ロサンジェルス・ドジャースに入団した後で、日本の多くのメディアが彼を非難するなかで、赤瀬川氏は一貫して野茂投手の「チャレンジ精神」を評価していた。そのフェアな姿勢にも、心を打たれた。 97年、ファウルズの戦力は充実し、開幕から破竹の11連勝を果たす。年をまたいでの14連勝は球団記録となった。その頃のラインナップは、1番ピッチャー岡村、2番サード平出、3番ショート中島、4番ファースト高橋、5番キャッチャー関口まで、ほぼ不動。
走攻守三拍子揃った名選手の中島雄人選手は20代なかばの絶頂期で、しばしば敵も見惚れるほどの活躍を見せた。主砲高橋弘康選手はベーブ・ルースを思わせる巨体から長打を連発した。年齢が近く、リードもキャッチングも優れた関口新捕手と出会ったおかげで、ぼくは投手として急速に力をつけ、96年に20勝、97年には自己最多の24勝を記録した。
この頃には年に一度、かつてチームの中心として活躍した選手たちが集まる「オールド・スター戦」が開催され、直木賞作家のねじめ正一氏や詩人の稲川方人氏らが現れてグラウンドを賑わせた。一方で、日常的に試合で活躍するヴェテランプレイヤー、例えば青木隆選手や松本徹選手、風元正選手らの気迫のこもったプレイも、常に20代の選手を刺激していた。
97年の秋には、平出監督と赤瀬川隼氏の尽力により、博多の平和台球場で西鉄ライオンズOBとの試合が実現した。その頃、チームの主戦投手になっていたぼくは、伝説の鉄腕・稲尾和久投手と投げあう貴重な体験をすることになった。その試合のラインナップが、1番・赤瀬川、2番・岡村、3番・平出と続いたことも忘れがたい。また、その試合を縁にして、西鉄ライオンズOBの豊田泰光氏がファウルズに入団した。豊田氏の入団にあたり、入団以来の背番号62を譲ったぼくは、野茂投手がドジャース入団時につけた背番号16を背負うことにした。
この97年という年が、おそらくはファウルズにとってひとつのピークであったと思える明確な数字がある。草野球は、まず毎試合9人の選手をそろえることが難題なのだが、この年のファウルズは、球団史上初めて、年間65試合を通して「助っ人選手」が1人も出場しなかったのだ。そしてそれは、残念ながら、最初で最後の記録となってしまった。
98年春には、豊田氏の提案で山口県豊北町(現下関市豊北町)に遠征し、かつて八百長事件の容疑をかけられ永久追放となった(2007年に復権)元西鉄ライオンズの池永正明投手を相手に試合を行った。
その直後、平出監督はドイツに長期留学し、87年の年間65試合制の導入以後、ほぼ毎年60試合以上(うち全試合出場も4回)を記録していた試合出場数は、この年を境に大幅に減少することになる。ぼく自身も、この年にはヨーロッパ各地を自転車で旅行し、長期間にわたって戦列を離れた。
99年、そして2001年とぼくは20勝を記録し、通算100勝も達成した。2000年には、それまでのファウルズの公式記録をすべて整理し、1冊のデータブックにまとめて、文化功労賞も受賞した。
しかし、2001年を最後に、それぞれの選手の事情とともに、ファウルズの年間65試合制は、継続できなくなっていった。長く続けてきた公式記録も、今は集計が困難な状況に直面している。
仕事や家庭の変化のなかで、ファウルズの試合に出場する機会がほぼ皆無になってしまったぼくは、そのことが今も気にかかるが、かつて感銘を受けた「グラウンドに来る者がもっとも優先される」というファウルズの精神に則して考えれば、現在グラウンドに立ってファウルズを支えている選手たちが、クラブの歴史も背負いながら、答えを見出していくより仕方がないのだろうとも思える。それでも、今もときどき、新宿の居酒屋「bura」で選手たちと口ずさんだ球団歌が口をつき、決して戻ることのない在りし日の記憶が、身体じゅうに電流のように流れる。
九人揃たか 助っ人呼ぼか
野暮な雨でも 行こうじゃないか
青いソックス 目深にシャッポ
せなで吠えてる ああ 背番号
jajajaja hi hit! jajajaja hi hit!
Light up Cooperstown! ■
(この文章は『小さな雑誌』2008年4月号に掲載したものを転載しました)
5月 14th, 2010 at 11:34:52
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